赤穂市フィールドワーク

2022.9.5~6


日本のナポリ

内藤 開斗

 

     私は今回の赤穂FWにおいて赤穂は観光において潜在的な力を秘めておりまだまだ伸び代があると感じた。以下そう思った今回の出来事とそれに伴う提案をしたいと思う。

1.赤穂段通について


赤穂段通は日本三大段通の一つで100年以上の歴史がある絨毯だ。ではそもそも段通とはなんなのかというと全て手織りで作られた絨毯のことを指す。また他の段通と違い、横織りでのり付けをしないので柔らかいのが特徴なのだという。実際に私たちは段通工房でその作業を体験することで非常に手間暇がかかっているということ、質感がしなやかであることを実感した。

 

またこの段通工房で織り手の方が仰った印象的な言葉がある。それは「私が注文を受けてこの段通を最後まで織れるか分からんね」である。段通は上で述べた通り全て手織りである。それと同時に織り手が違えば当然織物自体も味が変わってくる。つまり途中で亡くなってしまえばその織物自体が商品として意味が無くなってしまうそうだ。後継者問題は文化の伝承だけかと思っていたがどうやらそうではないらしい。

 

他に九州のデザイン系専門学校を卒業した唐津さんという方のお話もお伺いした。唐津さんはクラウドファンディングで赤穂段通を広めようとしていたり、段通でスマホケースやピアスを製作されたりしている新しい段通の形を模索されている方だ。あまり若い人がいない伝統工芸の世界にいきなり飛び込むのもすごく勇気がいたと思うし、地元の大分で無難に暮らしていくより離れた関西の赤穂に魅力だけでやってくるその熱意に自分まで心を打たれてしまった。

話は変わるが段通だけでなく伝統産業にはある問題がつきものらしい。それは伝統産業の定義だ。何を持ってその伝統のものといえるのか、どこまでがそれの許容範囲なのか線引きが難しい。伝統文化に精通していない自分からしてみれば、現在は未来からすれば過去でありそれが伝統の始まりとするならばそれはもう伝統ではないかと思う節がある。ましてやその時代の流れや風土によって変化していくものであると考えているので元の型さえ守っていればいわゆる型破りとしてありなんじゃないかとも考えた。

  

 

2.赤穂と塩とKariya Ryokan Q

 

 

 

赤穂は言わずと知れた塩の名産地だ。私たちは塩の国さんの塩作り体験によって作らせていただいた塩を特別にKariya Ryokan Qさんでおにぎりにして食べる貴重な経験をした。塩を作るという経験をやったことがなかったし何より古民家特有の木の温かみ、みんなでわいわいしながら食べる雰囲気、Kariya Ryokan Qさんの居心地の良さが相まって今までにない白米の甘さ、塩のしょっぱさを感じた。またKariya Ryokan Qさんのお料理が本当に美味しかった。一つ一つのお料理が丁寧かつ繊細に作られていて仕込みにどれぐらい時間がかかったんだろうと思うものばかりだった。あまりこのようなコース料理のお店に行ったことがないのでそれも新鮮に感じた要素の一つだ。しかし、この美味しさをどう伝えたらいいのかなとも思った。というのも様々な経験を積んだシニア層は味の素晴らしさ、料理の綺麗さが分かるかもしれないが私のような経験の少ない若者は写真を見て果たして美味しいのかどうか検討がつかない。視覚でしか分からないので情報量が圧倒的に少ないのだ。

 

 

提案

 

 

私が赤穂を変えるならまず、きらきら坂を中心としてイタリアのナポリのような外観を形成するような条例を作る。これはイタリア・ナポリ料理店「さくらぐみ」の西川明男オーナーが赤穂から見える瀬戸内海の絶景を日本のナポリと呼んだことにちなんだものだ。そして具体的にはまず景観づくりから始める。私は100年後「赤穂って日本のナポリだよね」と言われるような街にしたいので電柱を無くし道路を全てタイルにする。次に色々なお店を出店させたいので補助金を他の地域より多く出して差別化を図りより優秀なカフェやBARを呼び込む。またこのとき宿に泊らせた方が赤穂が潤うので積極的に夜の時間を潰せるBARや海が見えて夜に居たいと思えるお店、朝食は街並みを楽しみながらオープンカフェで食べられるようなお店を誘致するのが良いと思う。ここで赤穂段通のアクセサリーなんかを売ったら最高だ。私なら間違いなくお土産にも自分のためにも買ってしまうと思う。そして呼び込んだ後はお店を潰させないために定期的に経営のコンサルタントと話し合いの場を設けさせる。街づくりができてきたらティックトックやインスタグラム、Youtubeなどの何かしらの媒体で拡散して人を呼び込めばいいのではないかと思った。ここまでかなり理想論かもしれないが(いや多分そうだ)それほどまでに私は赤穂がかなりのポテンシャルを持っていると考えている。